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甲子園で消えた“甲子園出場” 2度の敬遠に怒り「勝負せえや!」…試合後にまさかの謝罪

 


中日など3球団で活躍の中尾孝義氏、名門・滝川高なら「3年間で一度は行けるはず」



 中尾氏は1年春からレフトでレギュラーを奪取した。夏を終えると捕手にコンバートされた。2年春には近畿大会で準優勝し、初戦では花園高(京都)の斉藤明雄投手(大洋、横浜)とも相対した。3年時には春の選抜出場の作新学院(栃木)が大会前に訪れ、合同練習。江川卓投手(巨人)の豪速球に誰もバットにかすりもしない中、中尾氏だけがバックネットへのファウル、続くは三塁線へファウル。すると江川はカーブを投げてきた。 「頭に当たると思ってよけました。ところが物凄い曲がりで見逃しのストライク三振。だけど、新聞か雑誌が『江川にカーブを投げさせた男』と書いたのです」。江川は春の甲子園で、今も破られぬ60奪三振をマーク。中尾氏の実力は全国トップレベルながら、選抜も夏の選手権も縁がないまま最後の夏になった。  兵庫は当時、県大会で明石、姫路、神戸市民などの球場と共に甲子園も使用した。ラストチャンスの開会式も甲子園。主将だった中尾氏は選手宣誓を行った。「抽選で引き当てちゃいましてね。あの頃は、宣誓をした高校は優勝できないっていうジンクスがあったんです」。チームは順当に勝ち上がり、決勝戦まで進出した。“甲子園出場”を懸けた大一番は甲子園で開催された。「それはあまり気にならなかったんですが、当たる相手が……。何か因縁だな、と感じました」。ラブコールを受けた東洋大姫路高だった。



ラストチャンスの決勝は因縁の東洋大姫路 2度の敬遠の末に…劇的な終幕


 先攻の滝川は初回に2点を先取。だが、その裏に先発した1年生の木下智裕投手(後に阪急、巨人)が1回持たず、追い付かれた。4回に勝ち越すも6回に逆転され、3-4。「次の7回に2死二塁で僕だったのですが、敬遠されました」。そのままの点数で迎えた最終回。2死二塁で3番の中尾氏に再び打順が巡ってきた。キャッチャーがまたまた立ち上がる。「打席で『勝負せえや!』って叫んだ記憶があります」。2度目の敬遠。続く4番バッターの打球は投手の頭をゴロで越え、センターへと転がった。二塁走者は本塁へ突進した。


 中尾氏の夢が消えた1973年7月29日。作新学院高は栃木大会を制し、春夏連続の甲子園を決めていた。翌日はスポーツ紙、一般紙の運動面を“怪物”江川の記事が彩った。「そうなんだ、一緒の日だったんだ。それは知らなかった。もし、県で優勝できていたら、甲子園でまた江川と戦いたいと思ったでしょうね。いやー甲子園、出たかったなぁ……」。  今年も夏の甲子園が迫る。聖地を踏める選手がいれば、届かず涙を流した選手もいる。中尾氏は球児たちの先輩として言葉を贈る。 「一生懸命に野球をやって、青春を楽しんで欲しい。必ず将来、自分の財産になる。甲子園に出れる、出れないは分からない。けれど、良い思い出になりますよ」

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